「麒麟がくる」
明智光秀
清和源氏の土岐氏支流である明智家に生まれる。
父は明智光綱とされているが、定かではない。
青年期は美濃国の守護・土岐氏に仕えるが、その後美濃の国主となった斎藤道三に仕える。
しかし道三・義龍の親子の争い(長良川の戦い)で道三方であったために義龍に明智城を攻められ、一族が離散したとされる。
その後、光秀は越前国の朝倉義景を頼り10年間仕えたと言われている。
その間、足利義昭が朝倉義景を頼ったことから、光秀は義昭と接触を持つこととなる。
そして義昭と織田信長の両属の家臣となる。
信長の多くの戦いに参加し、新参者の中では出世頭であった。
天正10年(1582年)羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられ出陣するが、その途上で重臣達に信長討伐の意を告げたといわれている。
光秀の謀反に対して信長は奮戦したが、やがて寺に火を放ち自害したとされているが、信長の死体は発見されなかった。
本能寺の変を知り急遽、毛利氏と和睦して中国地方から引き返してきた秀吉の軍を、天王山の麓の山崎で迎え撃つことに。
結果は敗戦となり、光秀は坂本城を目指して落ち延びる途中、落ち武者狩りの百姓に竹槍で刺されて深手を負ったため自害したとされている。
|